周辺情報

観 光

5月27日(火曜日)

もう直ぐ6月(水無月)と云うのに、4月の初めに湖南町の水芭蕉を紹介したまま、周辺情報の更新をしていませんでした。 更に湖南町の紹介を終えて、お隣、猪苗代町の紹介を始めていたはずが・・・? 時間が空き過ぎて、何を紹介していたのか、昨年の11月末まで戻って見ました。 早々、今年の大雪で度々遅延や運休になってしまった「磐越西線」の五つの駅周辺を紹介していたのです。 そこで今日は鉄道続きで、今は見る事のない路線を紹介仕様と思います。 「軽便鉄道」をご存知でしょうか? 明治から昭和にかけて全国各地に造られた小規模な鉄道です。 狭い線路や小さな車両などが特徴で多くは既に姿を消しています。 そしてお隣、猪苗代町にも半世紀以上前に廃止された「沼尻軽便鉄道」がありました。この鉄道はJR磐越西線の川桁駅と沼尻駅を結ぶ15.6キロ。 沼尻鉱山の硫黄輸送を主な目的として、1913年(大正2年)日本硫黄沼尻鉄道として開業し、1969年(昭和44年)その当時は磐越急行電鉄と名前を変更していましたが廃止されました。 この間旅客輸送も行い地元の足として活躍し、温泉の湯治客やスキー客も運びました。 小さな列車は「マッチ箱」等と呼ばれ、昭和29年発売の「高原列車は行く」のモデルにもなり、福島市出身の作曲家小関裕而を取り上げたNHK朝ドラ(2020年前期)「エール」の放送と共に知った方も多いかと思います。 元来は沼尻鉱山で採れる硫黄鉱山石の輸送目的として、日本硫黄によって敷かれた鉱山軌道です。 日本で産出する高純度の硫黄は稀少な資源で、かつ近代工業が漸く軌道に乗り始め、日本にとっては貴重な外貨獲得手段の一つでした。 最盛期は昭和初期から太平洋戦争中にかけての期間で、この時期には約1200人の人々が働いていましたが、永くは続かず1950年代前半に硫黄も生産されるようになり、コストの面からも高くつく鉱山からの採取は終わりを向かえました。 廃線後レールは撤去され、沿線に往時の面影は殆ど無く、猪苗代町の「緑の村」にディーゼル機関車と客車2両が保存されています。 機関車は「DC12形」で昭和28年に蒸気機関車に代わり導入され、最高時速34キロ「お幅にスピードアップした」と記録に残っています。 客車「ボサハ12」は定員50人で、運行終了まで活躍しました。 私もここ「緑の村」を訪ね客車に乗りました。 下の写真3枚はその時に撮った物です。

また沿線を歩く「懐かしの沼尻軽便鉄道を訪ねて軽便ウォーク」が、年一回開催されています。 例年秋口10月初めごろに行われている様ですが、今年は何時か・・・? 昨年前年と郵便局等にポスターが貼られていていますので、気付いた方もいらしゃるのではないでしょうか? 川桁駅を後にして山間を走る県道323号線は線路跡地を利用して作られた道路で、途中々に昔の駅舎の駅名板等があり、終点の沼尻駅までの15.6キロのコースです。 3個目の駅舎後「会津下舘」(あいづしもだて)には、当時のままの駅のトイレが残っています。 県道の直ぐそばで車を止めて見る事が出来ます。 陶器で出来ていて現在はトイレとしては使われていませんので、とても綺麗に保存されています。 終点の沼尻駅舎跡から1.2キロ歩くと中ノ沢温泉があり、温泉街の入口には「高原列車は行く」の歌碑があります。 昨年のウォークイベントは途中昼食も用意されていて温泉に入り、帰りはシャトルバスで川桁駅か猪苗代駅まで帰って来るコースになっていました。 参加費は1000円となっていました。 良かったら運動も兼ねて今年参加してみてはいかがですか? 日時が分かり次第お知らせいたしますね!
下の写真左が川桁駅前にある「沼尻軽便鉄道記念碑」と中央が川桁駅から3番目の駅名板とその隣にある当時のトイレです。 

県道323号線を走ると幾つかの当時の駅舎後に駅名板を見る事が出来ます。 昭和初期今から100年前、今となっては想像もつかない程、賑わっていたであろう沿線沿いを、私も一度はゆっくりと歩いて見ようと思っています。 

4月03日 (木曜日)
今日は此処湖南町の数少ない観光地で、郡山市の方達にも余り知られていない「馬入新田水芭蕉群生地」の紹介です。 山野の水辺や湿地などで、白い大きな花を咲かせますが、私達が花と勘違いしている大きな白い部分は、花では無く苞(ほう)と云い、此れは葉が変形したものです。 苞の中の円柱状の部分にある小さな黄色みを帯びた穂の様なものが花です。 苞が終わると葉は成長し、大きなものでは1m以上になります。 この葉が「芭蕉」(バショウ)に似ており、水辺に咲く事から「水芭蕉」と名付けられました。 参考までにバショウは中国原産の植物で、平安時代に日本に入って来ました。 バナナの仲間で最も耐寒性があり、南国風の葉を観賞する観葉植物として、古くから庭園や寺院などに多く植えられました。 「水芭蕉」と聞くと、多くの人達が「尾瀬の湿原」を連想しますが、最も数多く咲く尾瀬ヶ原は群馬県側で、尾瀬沼の半分と大江湿原が福島県側です。 その他県内では磐梯山のお隣、雄国沼や土湯峠の野地温泉周辺の1000m近い湿原で見られます。 どの場所も高原で車を降りてからハイキングコースを歩かなければなりません。 尾瀬に至っては1時間以上も歩く事になります。 我が町湖南町の馬入新田の群生地は、駐車場に入った時点で目に飛び込んで来ます。 最も楽をして湿原の白い貴婦人と呼ばれる花を見る事が出来る場所です。 マンションからの行き方は、左に曲がり県道9号線を進み、舟津~中野と通過し、三代で国道294号線に入ります。 湖南小中学校を通り抜け、トンネルを通過し下ると町の中心地福良に入ります。 街の中ほどで県道235号線を左に曲がります。 この県道は馬入峠を越え羽鳥湖方面へ行きます。 左折してから約10分もかからずに駐車場に着きます。 現在この駐車場から先は通行止めですので分かりやすい所です。 すぐ手前には数件の集落があり、集落を通る旧道も新道も駐車場手前にある、一本松の残る昔関所跡「口留番所跡」で合流します。 今回の写真は先月3月27日木曜日に撮ったものです。 先週はとても暖かく気温も15度前後、ただこの日を境に気温は下がり冬へ逆戻り、昨日まで三日間程、早朝から昼頃まで雪が降りました。 水分の多いこの季節の雪は溶けやすく、里山でもマンションの裏手の一番高い山に、僅かに残るだけとなりました。 馬入新田の湿原では、他では見られない湿原林「ハンの木」を見る事が出来ます。 湿地は湿地でも沢山の「ハンの木」の生い茂る林の中にあります。 戦前までこの周辺は水田も無く、荒れた湿地でもっと沢山の水芭蕉が咲いていた様です。 上の最初の写真は、雪焼けでしょうか葉先が茶色くなり、囲まれた中心に苞が見え、中の花までは見えませんでしたが、水面に「ハンの木」が映りこんでいます。 下の写真左は、根元に雪の残る湿地に強い「ハンの木」の林と、中央は一株に見えますが、白い苞が二つ見えていますので、二株寄り添っています。 水中に見えるのはハンの木の落ち葉です。 右側は雪が溶けた所から多くの若い芽が出始めた様子で、一週間経った今は大きく育ち、どの株にも苞が見られると思いますが・・・。 どの位生長したのか、この後訪ねるのが楽しみです。 

下の三枚の写真は駐車場手前にある、一本松と口留番所跡の道路標識とその案内版です。 読むと1667年に関所が設けられ、現在国道294号線白河街道の裏街道で重要な場所だった様です。 今週は天気が不安定で、気温も余り上がりませんが、お天気の良い日に、青空の下で一段と苞の白が目立つ「水芭蕉」を見に出掛けて見て下さい! 湖南町にこんな素敵は場所が在ったのかと、発見して頂けたら良いのですが・・・?。

3月15日 (土曜日)
久し振りに載せた前回3日(月曜日)の内容は、マンションから直ぐの集落、浜路から舟津に至るまでの湖に最も近い道路湖岸道路の現状をお伝えしました。 この一週間は気温も上がり雪も溶けて、自転車走行も大丈夫だろうと確認を兼ねて、13日木曜日に出掛けて来ました。 気温15度まで上がった12日水曜日に比べると下がり8度でしたが、風があった割には然程寒くは感じませんでした。 午前11時40分ごろ湖岸道路に入り、浜路の数軒の民家を通り抜け、大木「エゾエノキ」を通過します。 約二週間前の2月28日金曜日は、此の先積雪が20㎝以上あり、徒歩でしたので雪の中を歩きましたが、今回全くと言って良い程、雪はありません! 除雪をしたら端に寄せられ硬くなった雪が、日陰にあるはずと思いましたが、車道にも側道にもありません。 此のところの暖かさで自然と溶けたのでしょうか? 左手に桜並木が続きます。 古木が数本、細目の木が数十本続き、浜路浜から横沢浜へ入ります。 道路を塞いでいた倒木は処理され、幹は撤去され根は防風林の中、枝は小さく切断され、桜の根元に積み重なって置かれていました。 遠くから見ても横たわった木は見えません。 四カ所の倒木が処理されていました。 只、倒木により被害を受けた古木の桜の木が痛々しく、折れて出来た真新しい木肌を見せ、これ以上傷を大きくしない様に、いち早い桜の木の手当と保存をと願うばかりです! 綺麗な桜並木が舟津に向かって左に、右手は防風林と砂浜が続きます。 道路を塞いでいた樹木は四本でしたが、それ以上に倒れた木が存在します。 手付かずの場所もあり、防風林の小径や浜に抜ける際は充分に気を付けて下さい!
広々とした水田には雪がまだあり、白鳥や鴨の姿を見る事が出来ます。 雪の多かった今年は何時頃まで見られるのでしょうか? 三月中頃から北の空に飛び立って行きますが、今年はどうでしょうか?!
下の3枚の写真は、左側は昨年は四月二十日ごろ満開となった桜並木。 中央が取り残された根元と、右側が倒木の被害を受けた古木桜です。 上の最初の写真は、雪が残る水田で羽を休める白鳥たち。



3月03日 (月曜日)
約三か月振りの更新になってしまい、また今朝は未明からの雪で冬へ逆戻りしてしまい、昨日まで四日間程続いた暖かさが嘘の様です。 只、今までとは違い最低気温は然程下がらずー3度ぐらいでしたが、此処の所最高気温が8度から10度近くまで続いたせいか、気温より寒く感じます。 今日の周辺情報は三日前2月28日金曜日に、私の足である自転車にもう乗れるだろうかと、道路状態や浜路・横沢から先、舟津までの積雪を知りたくて、青空が広がり風も弱かった事もあり、お昼丁度に出て歩いて来た時の様子をお届け致します。 本来なら交通量のあるマンション前を通る県道9号線を歩くのは、避けたかったのですが、朝7時40分ごろマンション前を通る路線バス湖南方面が、火曜日と木曜日には午後2時15分ごろありますが、それ以外の日は何と何と午後4時数分前まで無いのです! 今年の大雪で殆ど一月二月は歩いても当然自転車でも外に出掛ける事が出来ませんでした。 運動不足解消と思い車に注意しながら浜路を目指して歩き出しました。 約20分後、湖に一番近い道路「湖岸道路」に入りホットしましたが、お昼時とあり交通量も少なく、側道に雪があるものの溶けて車道を濡らしている所も少なく、埃がたつことも無く歩きやすかったです。 浜路の家並みを通り、約400年以上の大木「エゾエノキ」を過ぎると、進行方向舟津に向かって左手に桜並木が続きますが、家が無い事もあり雪はそのまま除雪されていませんでした。 当然と云えば当然なのですが・・・。 此処からは下の写真の説明になってしまいますが、約2キロ弱、吹き溜まりでは膝まですっぽりと入るぐらい、でも湖との間にある防風林のおかげと、此のところの気温と雪自身の重みでしまり、さほど気にせず歩け、約1キロ程歩いたでしょうか?コンクリートの車道が出始めた時、道を塞ぎ横たわる松の木が現れました。 防風林が倒れていたのです。 だいぶ太い木で根本から倒れています。 数本の枝が土手にささり支える格好で、車道との隙間があり下を通り抜ける事が出来ました。 但しこの後、横沢浜と舘浜の中間にある「郡山市少年湖南の村」の入口までの約500メートルの間に、3本の木が同じ様に道を塞いでいました。 太さは様々でしたが、田圃近く土手を通らないと前に進む事が出来ない木が続きました。 この建物まで来たら舟津浜公園手前までは除雪がせれて車道には雪はありませんでしたが、公園手前で何故か除雪が終わり、公園の駐車場と車道は雪に覆われて、後100メートルも無いのにとても歩きにくく大変でした。 公園を抜けると民家が数件あり除雪はされ、舟津の信号まで道幅も広くなり側道にも殆ど雪は有りませんでした。 田圃を見ると既に溶けだし土が現れた場所に、数十羽の鴨と一緒に白鳥の姿を見る事が出来ました。 上の最初の写真はこの時の様子で、静かにそ~と近づいたのですが、この後鴨は一斉に飛びたってしまいました。 マンションを出てから約二時間余り。写真を撮ったり、防雨風林の調査をしている方達とお話をしたりと進んで来ましたが、流石に帰りのコンクリートの車道歩きを考えると、足に疲れを感じ、上戸駅行きの路線バスに乗る事に決め、まだまだ時間があるので郡山市内大槻発三森峠経由のバスがある事に気付き、中野手前で乗車し三代の湖南小中学校前で降りて、三代宿を散策し学校前午後4時20分のバスに乗り、マンションに午後4時45分ごろ戻って来ました。 風も弱く歩くのに最適な気温でしたが、久々の歩きに足が・・・疲れました。 下の写真は「湖岸道路」を歩いた時のもので、雪に覆われた桜並木と倒木の様子です。

昨年は三月こそ雪は降りましたが、新緑の訪れも早く、また今回歩いた湖岸道路の浜路から舟津までの約3キロ続く桜並木も、4月15日ごろには綺麗に咲いていましたが、この大雪で遅れるかと思いますが、後一ヵ月余り春の息吹を直に感じられるこの場所を楽しみにお越しください! 下の3枚の写真は同じ日の28日、マンションを出て浜路の集落までの道筋で撮ったものです。 左が田畑が広がる町が小屋からの里山の風景と、日差しの暖かさに咲き出した青い色が可愛い「オオイヌノフグリ」と、雪の小道でそこだけが溶けている湖南町を象徴する絵柄の「マンホール」です。

11月26日 (火曜日)
前回、猪苗代町を走る磐越西線の駅五つの中で、「上戸駅」から「関都駅」二つを紹介しましたが、今回は「川桁駅」「猪苗代駅」「翁島駅」の三つの紹介です。 始めに「川桁駅」ですが、1899年(明治32年)8月に岩越鉄道の貨物駅として開業し、翌年1900年11月に旅客営業を開始しました。 後の流れは五つの駅とも同じく、1906年(明治39年)11月に国有化され、1917年(大正6年)に岩越鉄道から現在の磐越西線と名前を改称し、1987年(昭和62年)4月に国鉄からJR東日本の駅となりました。 現在の川桁駅は猪苗代町を代表するホテルの最寄り駅ですが、2時間に一本の鈍行しか止まらず、電車を利用するお客様は、猪苗代駅で降りて迎えのホテルのバスを利用してしまう様です。 そんな中でも春の桜の季節を向かえると、駅から程近い観音寺川の両岸の見事な桜並木に、沢山の人達がやって来ます。 駐車場も少ないので混雑を避けるために、駅を利用する方達で賑わいます。 次に福島県を代表する観光地と云えば、「裏磐梯」ですが、その玄関口となるのが隣駅「猪苗代駅」です。 こちらは急行も止まります。 それでも一時間に上り・下りそれぞれ一本ですが・・・。 車社会の今、首都圏の鉄道駅を除いては、何処の地方の鉄道もお客さんを呼ぶのに苦労しているのが現状です。 11月下旬を迎えた今、紅葉は裏から表に変わり、町の観光名所の一つ「土津神社」(はにつじんじゃ)のモミジは、例年より一週間から10日程遅かった様で、現在は赤や黄色の落ち葉が境内の庭を絨毯を敷いた様に彩っています。 磐梯山の麓と田園風景の中を進むと「翁島駅」(おきなしまえき)があります。
名前の如く猪苗代湖の北西の端ある、湖唯一の島の名前で、駅開設当時この周辺は翁島村と呼ばれていました。 1908年(明治41年)猪苗代湖畔長浜の高台に、有栖川宮・高松宮翁島別邸が設けられ、現在は天鏡閣・福島県迎賓館と名前が変わりましたが、最寄り駅で明治41年に建設された駅舎は貴賓室もあり、内装や外観はルネッサンス洋式でした。
その当時の面影を残す駅舎が、猪苗代緑の村に保存されています。 この建物は1922年(大正11年)5月に3代目として建築され、1983年(昭和58年)の国鉄合理化によって、地元で譲り受け1987年(昭和62年)に、緑の村内に移築復元されたものです。 現在は町が蕎麦の産地でも知られている事もあり、会津の郷土料理を出す「蕎麦処」として活用されています。 参考までに今年の営業は終了しています。 今回駅を回って私が一番驚いたのは、この翁島駅前に有る名所案内板です。 「英世が郷里に凱旋し歓迎を受けた翁島駅」と書かれています。 1915年(大正4年)9月8日15年振りに帰国し、郷里の土を踏んだところ、とありました。 800名程の村人が集まったともあります。 驚いたのはその後の文章で、医師試験受験のために上京した1896年(明治29年)9月、19歳の時に単身故郷を離れ、東北線の本宮駅まで歩いて行ったと書かれていた事です。 確かに現磐越西線が開通したのは、3年後の明治32年です。 当時の人は歩くのが当たり前の事だったのかも知れませんが、その距離約36キロ。 道路事情も違い、何と云っても足元が違います。 本宮駅から更に汽車で8時間の長旅。 今となっては想像もつかない出来事です。 生家は保存されていて、皆さんも良くご存知かと思いますので、違った面から駅や駅舎を訪ねて見ては如何でしょうか。 新しい発見が有るかも知れませんよ。 写真は今回紹介した三つの駅周辺の名所です。
左端は「川桁駅」から数分の「観音寺川の桜並木」です。 4月下旬の桜は見事です。 現在紅葉した葉が殆ど散り、後ろに見える川桁山の紅葉は既に終わっています。 中央は猪苗代スキー場の下、高台にある会津松平藩の祖、保科正之公を祀る「土津神社」とモミジの紅葉です。 右側は磐梯山の麓、町営緑の村に移築保存されている「翁島駅旧駅舎」です。 二回に分けて磐越西線の猪苗代町にある五つの駅を、辿って来ました。 (すみません。いずれの写真も11月09日に撮影したもので、紅葉は既に終わっています)

郡山駅を出た電車は、磐梯熱海駅を過ぎると高度を上げ、中山峠を越えて湖から吹く強い風の中を走り「上戸駅」に着きます。 上戸駅から志田浜を通って関都駅へ行きますが、この間が最も猪苗代湖に近い線路ですが、トンネルに入ってしまい、中々湖を注意深く見ていないと、見過ごしてしまい、座席に座っていると尚更見る事は出来ません。 志田浜踏切を過ぎると湖からは離れ、右手に会津を代表する山「磐梯山」を望み、広々とした田園風景の中を「翁島駅」まで進み、猪苗代町からお隣磐梯町へと大きく蛇行しながら下って行きます。 下の写真左が志田浜踏切で撮った物で、遠く山の麓にトンネルの出入口が見え、その手前に現在休止駅となっている「猪苗代湖畔駅」があります。 中央は広々とした田圃の中に続く線路と、右が一番驚いた「翁島駅」前の観光案内板です。 一番最初の写真は、今日26日朝8時20分に撮影した磐梯山です。

11月07日 (木曜日)
暫くの間、車をお持ちの方達には余り関係が無いかも知れませんが、もう少しお付き合いして頂いて、隣町、猪苗代町にある磐越西線の駅五つを、マンションから最も近い駅「上戸駅」から始め、この地出身の偉大な人「野口英世」博士の話が残る駅「翁島駅」までを、数回に渡って紹介したいと思います。 今回は何人かの人は利用しているであろう最寄り駅「上戸駅」(じょうこ)と次の駅「関都駅」(せきと)間に関係するお話です。 「上戸駅」の歴史は古く1899年明治32年の3月に開設され、岩越鉄道(現磐越西線)の山潟駅として誕生しました。 当初この周辺の地名から名付けられ、執着駅でもありましたが、同じ年の7月に会津若松駅間が延伸されて、途中駅となり1915年(大正4年)に上戸駅と名前が変わりました。 何故名前が変わったのか・・・分からず仕舞いでした。 現在は無人駅で、一日当り何人の人が利用するのだろうかと、不思議なくらいで、10人も居るのだろうかと考える程です。 然し国鉄時代1968年(昭和43年)ごろから、1986年(昭和61年)の間、猪苗代湖に最も近い駅として、大勢の観光客で賑わっていた駅です。 当時は車社会に入り、汽車から電車へと変わりましたが、乗客は減りつつありました。 只、みんなが車を持つ様になり、国道49号線の渋滞が起き、嫌気がさした湖水浴客等が、「上戸駅」や「関都駅」から徒歩で、砂浜の続く上戸浜・志田浜湖水浴場に向かうケースが増えたのです。 先程1986年(昭和61年)まで賑わったと書きましたが、この年に夏季のみ営業する臨時駅「猪苗代湖畔駅」が出来たためです。 9月14日の日記で志田浜を紹介した時にこの駅にも触れましたが、マンションから国道49号線に出て、セブンの信号の手前に謎の「栄光の女神」像の側に「ようこそ猪苗代湖畔駅」の立て看板が有る所です。 今もホームが残されていますが、雑草に埋もれています。 「上戸駅」の賑わいから「湖畔駅」へ、昭和から平成へ移る時代、バブルが弾け2000年に入り、2007年を以てこの臨時駅は使われず、現在休止駅の扱いとなっています。その先の駅「関都駅」はほぼ上戸駅と同じ道を辿っています。 名前は付近の二つの集落名「関脇」(せきわき)と「都沢」(みやこざわ)を合成したものです。 此れからの季節、山々が色づき始め、散歩するのに良い季節です。 車を上戸浜公園や山潟小学校跡地等に置いて、ゆっくり歩いて見るのは如何ですか?。 昼食をとる処も幾つかありますし、お弁当を持ってベンチのある公園で過ごすのもお薦めです。最初の写真は国道49号線の跨線橋上から撮った上戸駅手前の電車です。 赤いランプが見えますが、後ろ側を示すテールランプですので、郡山駅行きと分かります。 下の左側は県道9号線と国道49号線の交差点近くにある、元山潟小学校の校舎と校庭で、現在はRoots(ルーツ)工務店の駐車場となっています。 真ん中の写真は国道49号線を左に曲がるとすぐにある「上戸浜公園」で木のテーブルやベンチがあり、駐車場も広いです。 右側は現在は休止駅となっている「猪苗代湖畔駅」のホームで、国道49号線側からは雑草に覆われて見えませんが、反対の田圃から見る事が出来ます。 普段はこちら側も高い雑草で、中々見えないのですが、日にちを合わせたかのように綺麗に一部分が刈られていました。






10月18日 (金曜日)
今回はマンションの在る郡山市の隣、猪苗代町が属する耶麻郡(やまぐん)を紹介致します。
マンションの前を通る県道9号線を右に曲がると、100mも行かない内に市町村が変わります。
猪苗代町・磐梯町・西会津町・北塩原村の三町一村からなる「耶麻郡」の猪苗代町です。  西会津町を除いた二町一村は、それぞれが「磐梯山」を置いて接しています。 会津地方の北部に位置し、それまで郡の中央部を占めていた複数の市町村が合併し、1954年(昭和29年)に喜多方市が成立し、また平成18年には喜多方市を囲んでいた4つの市町村が入り、新しい大きな範囲の喜多方市が誕生しました。 これにより会津の最も西に位置する西会津町が切り離されて、現在の耶麻郡があります。 耶麻と云う漢字には余り馴染みがありませんが、調べてみると承和7年(840年)「続日本後紀」には「陸奥国耶麻郡」と記され、古くは「山ノ郡」で山都(やまと)の意味を持ち、会津地方の北西部にあり三方を山に囲まれていることから、山の間・山の入口の意味を表しています。 直ぐ隣の猪苗代町は「磐梯山」の南麓に広がり、湖に面していて、此処マンションに住んでいる方々は、大半の方が食料や生活品の買い物に出掛ける町かと思います。 「磐梯山」の北側を占める北塩原村は、福島県を代表する観光地「裏磐梯」で、数多くの大小異なる湖沼を持ち、その美しさは五色の色にも表わされている程です。 皆様も良く訪れる場所ではないでしょうか?。  「磐梯山」のもう一つの麓にあるのが、その名前の通り磐梯町です。 1816mの磐梯山の頂上は猪苗代町ですが、その登山口として最も多くの人が利用する八方台は磐梯町、スキー場で有名なネコママウンテンは、磐梯町と北塩原村に跨って、北側と南側のスキー場が繋がり、昨年2023年12月に新しく名前を変えたスキー場です。 どれらをとっても「磐梯山」と切り離す事は出来ない二町一村です。 雪の季節がもうそこまで来ていますが、紅葉を向かえるこの季節、それぞれの町と村をぐるりと回って見てはどうでしょうか?。 それぞれの町と村のご案内はまた次の機会にします。 少し遠いですが、西会津町も訪れて見たいと思っていますので、楽しみに待っていて下さい! 上の最初の写真は「磐梯山」の頂上で、数年前に友人が撮ったものです。 下の左の写真は10日磐梯町からの帰りに猪苗代との境から、2年前に撮った毘沙門沼からの裏磐梯山と、右が昨日17日昼一時半ごろの磐梯山です。

10月06日 (日曜日)
湖の名前を聞いて一緒に思い浮かぶのは何でしょうか?。 例えば、北海道の「摩周湖」と「霧」や青森・秋田に跨る「十和田湖」と「乙女の像」「奥入瀬」、栃木県の「中禅寺湖」と「華厳の滝」等です。
「猪苗代湖」はやはり「磐梯山」ですよね! 切り離す事の出来ない「宝の山、磐梯山」について少し取り上げて見たいと思います。 表と呼ばれる湖側と、1888年(明治21年)頂上北側の部分が水蒸気爆発によって崩壊を起こし、当時の荒々しい姿を見せる裏側の二つに区分されています。 表側は猪苗代町、裏側が北塩原村と、共に耶麻郡(やまぐん)に属しています。 観光地として名前が知られているのは、爆発の時に川を堰き止めて沢山の湖沼が出来、その代表とされる「五色沼」等がある裏磐梯で、此処マンションをお持ちの方々は、良くお出掛けになっていてご存知かと思いますので省きますが、「五色沼」と云う名の沼は無く、エメラルドグリーンやコバルトブルー等の色の水をたたえる約30の沼の呼び名で、数の五つじゃなく季節や天候・光の角度により、様々な色に変化して見える事から名付けられました。 その中心は「毘沙門沼」や「赤沼」です。
磐梯山の話に戻りますが、今回は自然界の山自体の話では無く、全く違った角度・方面からアプローチして見たいと考え、何と何と「民謡の会津磐梯山」を取り上げて見ました。 元々は会津地域に伝わる「玄如節」(げんじょぶし)が盆踊り節として転用され、「エンヤー」の掛け声で知られ、郡上おどり、阿波踊りと共に、日本三大民謡の一つにも数えられています。 1934年(昭和9年)に歌い出しをとって「会津磐梯山」と名付け、レコードされ発売され全国的に広まりました。 しかし、元の歌詞と大きく違った内容で、地元では非難の声が上がり、後に地元の人達の手で本来の会津磐梯山に近いものが創られ、こちらを「正調会津磐梯山」と呼んで162番まであり、「会津磐梯山は宝の山よ」は21番に当たります。 現在歌われているものは、正調では無く最初にレコーディングされた方で、「宝の山」磐梯山に「笹に黄金がまたなりさがる」と称え歌い出し、猪苗代湖、東山温泉、鶴ヶ城など「北は磐梯、南は湖水」の会津の緑の夏をめぐり、飯盛山で花と散った白虎隊で終わり30番まである方です。 「笹に黄金」がの歌詞には、二通りの解釈があり、笹の花は60年~70年に一度、僅かな期間しか咲かず、結実すると黄金の実がなる事から称えられた事と、逆に花が咲いて実がついた年には、天災が起こる現れとされ、縁起が悪いともされています。 昔、天明の飢餓の時に笹の花が咲き稔り、つぶしてでん粉を採り食べて飢えをしのいだと言われています。 笹はイネ科の植物ですので、黄金色に輝く様が此の時期と重なります。 食べ物の少なかった時代、それさえも貴重だった事が分かります。 現在テレビ等で「民謡」が流れる事がとても少なくなり、興味を持って聞かない限り聞くことが無く、また、それに加え近年のコロナで夏の風物詩でもある盆踊り等の行事が無くなってしまった事も、拍車をかけた要因の気がします。
一度機会があれば、ちょっと長いですが30番まで聞いて見たいものですが・・・。
最初の写真は黄金色の稲穂と磐梯山。 下の写真は左が1月の白鳥、中央が2月雪を頂いた逆さと右が3月ほんのりピンク色に染まった夕方、それぞれの月の磐梯山です。

9月21日 (土曜日)
ここ三日間、小雨が降り続く朝を同じ様に向かえています。 灰色の世界が広がり、何処までが湖で空か区別がつき難く、時折強い風が吹き抜け、薄っすらと対岸の山々が見え隠れする午前中の天気です。
気温は20度前後で低いですが、湿度が100%の今日は体感温度は高く、部屋では寒さをあまり感じません。 欲しいと思っている時には降らず、稲刈りの時季を控えてのこの雨は・・・作業の遅れが心配です。 水の有り難さを感じながら、前に広がる大きな水瓶(湖)、この場所に在るからこその役割を僅かですが、今日は紹介仕様と思います。 湖の東側には現在人口約32万人の郡山市と、北西側の約11万人の会津若松市があります。 この二つの市は安定した水の供給の為に、猪苗代湖の水を引き、農業用水のみならず工業用水、生活用水として無くてはならない水となっています。 引かれ創られた年代から云うと、北西側会津若松市の戸の口用水堰が古く、1623年着工で湖の自然流下している日橋川より取水し、度重なる中断にも負けず、また飯森山に150mの洞穴を人力で堀進めて、その後1868年戊辰戦争で白虎隊士が、この洞穴を通り飯森山に辿り着き、黒煙に包まれた鶴ヶ城を見て自害した悲しい歴史があります。 この戸の口用水堰とは逆の東側に創られたのが、明治12年(1879)から始まった日本で初の国直轄の農業水利事業となった「安積疏水」です。 古来より水利が悪く不毛の大地だった安積原野に、湖の水を引いた一大事業でした。 この時、猪苗代湖の水位を高くして、安積疎水へ水を供給するために戸の口堰用水の取水口のところに、十六橋水門が作られました。 会津に流れた水は日本海へ、安積郡山に流れた水は太平洋へと、江戸のころから現在まで多くの人々の暮らしを支えています。 どちらも長い年月をかけて創られ、今も使用され歴史がありますが、是非一度取水入口の十六橋を訪ねて見て下さい!
十六橋の名前は弘法大師(空海)が各地を訪ね歩く途中にこの地を訪れ、十六塚を築いて橋を渡したと云う話が残っており、此れが由来とされています。 安積疎水の設計者オランダ人技師ファン・ドールンの銅像と戸の口水門事務所があります。 当時は十六の石造のアーチで出来ていました。 現在の物は大正3年(1914)のストーニー式水門です。 また近くには1959年6月に山間いを通っていた道(現国道49号)に完成した「金の橋・銀の橋」があります。 猪苗代湖から流出する地点の日橋川に架かり、中洲を通る為に橋が2本架けられました。 猪苗代町が金の橋、会津若松市が銀の橋で、市町境界線は銀の橋の橋上にあり、同時に完成したことから「ふたご橋」とも呼ばれていますが、橋の色は金色・銀色ではありません。 水位の調整の為に創られた十六橋ですが、安積疎水の取水口は此処マンションから程近い、県道9号線と国道49号線の交差点、上戸浜にあります。 直ぐ傍に公園も有りますので寄ってみて下さい! 郡山市内の小学校では社会科見学の一環として訪れている様です。 何度か見かけた事があります。 私も一度ゆっくりと猪苗代湖から流れる水の行方を辿って見たいと考えています。
最初の写真は現在のマンションから見た景色で僅かに対岸が見えています。 下の左の写真は「十六橋」と隣が上戸浜にある「安積疎水取水口」に、今日マンション正面玄関口の色づき始めたナナカマドの写真です。 実も葉も少しですが紅葉してきました。

9月04日 (水曜日)
久し振りにとても涼しい朝を向かえました。 気温を見ると午前6時時点で16度、窓を開けると涼しいのを超えて、ちょっと肌寒さを感じます。 此のところ湿度が高く、気温の暑さよりも更に暑さを増す感じの日々が続いていましたので、ホットしています。 前回までマンションのある湖南町を紹介して来ましたが、次はと思っていたら、そもそも最も肝心な目の前に広がる「猪苗代湖」を紹介していない事に気付きました! 観光は猪苗代湖あってのものですよね。 皆さんはどの位ご存知でしょうか? 私はと云うと福島県のほぼ中央に位置し、日本で4番目に大きく、磐梯山の麓にある湖ぐらいで、間違っていたのが湖全体が名前の通り猪苗代町にあると思っていた事です。 始めてマンションの住所を見て、「えー」郡山市と驚いてしまいました。 それでも対岸は会津若松市かなぁーと、何となく分かるのですが・・。
この文章を書くにあたり疑問に思っていた、3市町村の湖に於ける面積をネットで調べたら、1998年(平成10年2月)に猪苗代湖に自治体の境界線が設定されたと云う記事を見つけました。 それによると湖岸距離に応じ面積配分を決定したとあり、郡山市26%、会津若松市29%、猪苗代町45%となっていました。 ここマンションは後僅かな距離で猪苗代町と云う所に建っているのですね。 名前の由来は調べてみましたが色々な説があり、定説は無い様です。 神話に寄ると昔、野猪に苗代を耕作させたとあり、他に「なわ」とは「なら」(奈良)で、奈良盆地のような平らを意味し、「しろ」はダイで、代とは高いを意味し、高い平らな所にある湖と云う「大和ことば」から来ている等・・・。 他にも民話からくる物もありましたが、別名の天を映す鏡の様に美しいことから「天鏡湖」と呼ばれているようです。
猪苗代湖の誕生は約20~30万年前に、現在の湖の東側と西側の両断層により、地面が陥没して盆地が出来、その後約8万年前頃、磐梯山の噴火により流路が塞がれて、盆地の低い部分に水が溜まって出来たとされています。 目の前に広がる猪苗代湖ですが、大きさは4番目ですが、最大深度94.6mと標高514mはだいぶ後ろの順番になり、日本一の深さを誇るのは「田沢湖」で423.4mと、標高日本一は「中禅寺湖」1269mとどちらも太刀打ちできませんが、マンションから見える夕陽夕焼けは負けていないと思います。 湖あっての観光地ですので、色々な方向から見て聞いて考えて、大自然を見つめて行きたいと思います。 最初の写真は今日午前5時半、久し振りに爽やかな青空が広がった風景と、下の3枚は今年の写真の中から、4月14日5時15分朝焼けの逆さ磐梯山、5月4日午後6時25分の夕陽、6月2日午後6時50分空と湖を赤く染めた夕焼けで、ベランダからの撮影で、風が殆どなく凪状態でした。
 

8月13日 (火曜日)
上の写真は今日13日午後1時過ぎに撮った湖上空です。 磐梯山は雲に覆われて頂上は見えません。
昭和30年、1955年3月5つの村が合併し湖南村となり、1965年に郡山市に合併された、湖南町福良の隣、最後の一つとなった「赤津」を紹介致します。 猪苗代湖の南西側で湖に注ぐ常夏川と云う小さな河川の段丘に集落が開けています。 その昔、赤津氏がこの地を拠点としていたことから村名が付いたとせれています。 白河街道の整備と共に宿駅が置かれ、湖に近いことから陸上のみならず、船運の拠点となり、川の河口に港があり、現在の秋山浜には船宿もあり栄えました。 福良の港とは僅かしか離れていない為、荷揚げによる対立が多く、江戸後期から幕末にかけては、福良に有った代官所が、此処赤津に移設されました。 また現在の通りでも分かる様に、他の宿場町とは異なり、街路は一直線です。
その当時の面影を残す建物は少なく、ただ多くがトタンで覆われた屋根の形や頂部に、昔の作りを思わせ、元茅葺の家屋が多かったことが分かります。 隣の福良は国道294号線のバイパス工事がほぼ終わり、湖南町に於いては福良一里塚跡の峠と、此処赤津を残すのみとなりました。 交通量が計画当時からだいぶ減った現在、此処を訪れて本当に必要か少し疑問が残ってしまいました。 車の騒音や揺れは少なからず有りますが、それ以上に活気が無くなってしまう様で・・・。  当事者にしか分かりませんね。
すみません!。
赤津は郡山市の観光名所でもある、布引山風の高原風力発電の入口となっています。 三代・福良を過ぎて小さな峠を越え、常夏川を渡り左に曲がると布引山に上る事が出来ます。 道路幅が狭くカーブが続きますので注意して下さい。 8月25日には風の高原まつりが行われます。 夏を代表するヒマワリ畑が広がり、眼下に猪苗代湖と雄大な磐梯山を見る事が出来る景勝地です。
6月06日(木)から、湖南町を昔の合併する以前の5つの村と捉えて紹介してきましたが、マンションとは反対に位置する赤津が最後となり、湖南町の紹介を終わりたいと思います。 自身で出掛けて聞いて見て写真を撮っての事なので、まだまだ知らない所が多いのが現状ですが、湖を通して自然の美しさを、此処湖南町に住んで感じています。
この後は猪苗代町を紹介しようか、対岸の若松市湊町を紹介しようか悩んでいます・・・。
暫くの間お待ち下さい。
写真は湖南町には4つの郵便局が有りますが、その一つ赤津簡易郵便局と現在の一直線の町並、バイパス工事が進む工事現場のものです。




7月16日 (火曜日)
湖南町の行政の中心地である「福良」を紹介します。 国道294号線(白河街道)の三代から右手一里塚
左手湖南小中学校を過ぎ、三王坂トンネルを下ると福良の町並みが見えて来ます。 昨年23年3月に直角に曲がった道を解消するバイパスが開通し、街道の面影を残す町中へ入らず、通り抜ける事が出来る様になりました。 バイパスには入らず、現在旧道となった道を進むと、信号の手前右手に行政センター・湖南公民館、左手にサニーランド湖南・駐在所等の建物があり、此処が中心です。 信号を左に曲がると
湖南高校を右手にバイパスを横切り、4月水芭蕉咲く馬入新田を経て、那須連山の麓羽鳥に至る、県道235号線に入ります。 信号を右にほぼ直角に曲がると街道筋の民家が続き、建物自体には昔を忍ばせる物を見つける事は出来ませんが、直角に曲がる道筋のみ、遠い昔の宿場を感じる事が出来ます。  このまま真直ぐ進むと赤津から黒森トンネルを通り抜け、会津若松市に入りますが、福良郵便局を過ぎ右手に曲がると、猪苗代湖の名勝地、青松浜や秋山浜に出る事が出来ます。 これらの浜から真向いの磐梯山や遅くまで雪が残る飯豊山、西吾妻山等の姿は福島県を代表する景勝地です。(写真を載せたかったのですが見えませんでした) 夏本番を迎える浜は長さは余りありませんが、湖水浴とキャンプで賑わう場所です。  秋山浜からホタルの里の小倉沢にかけての、湖岸道路からはマンションを見る事が出来ます。
同じ町でも猪苗代町に接した、此処マンションと会津若松市に接した場所までは、湖を直線で行く事が出来れば直ぐですが、湖岸を回るとなると距離も時間もかかりますが、路線バスは秋山と中浜(青松浜)を通り、その先の勝田内が終点です。 バスを利用する事は無いと思いますが、一度訪れて見て下さい。
<最初の写真は16日早朝6時半、雨が降り出す前のマンションからの磐梯山>
下の写真は、行政センターと三角屋根が特徴のサニーランド湖南(市内在住60歳以上無料)の温泉施設と福良駐在所です。 一か所に固まって有ります。
 

ここ福良の歴史は古く江戸時代前から栄えていた場所です。 馬入新田を通り羽鳥に通じる県道235号線(冬季通行止め)は、昔は馬入峠が鎌倉街道で表通りだった為、多くの人達が森の奥にある、建立が今から1160年も遡ると言われる「隠津島神社」(おきつしま)に参拝して、いざ鎌倉を目指しました。
古来の街道筋として、また戦国時代以降は白河街道の宿場として、会津に通じる大事な場所で、江戸時代に入り、保科氏が初代会津藩主となると、街道の整備も頻繁に行われ、三代宿と共に本陣が置かれました。 会津城下から約6里(24㎞)で、一日の行程だった事から宿泊する人が多く、猪苗代舟運の拠点として多くの物資が集められ、現国道294号線勢至堂峠が会津藩と白河藩の境で、麓の三代宿と共に口留番所や本陣・問屋が設けられ繁栄しました。 会津に通じる道として会津西街道(下野街道)が有りますが、度重なる天災で不通となり、白河街道が奥州街道に抜ける主要街道として、また参勤交代に利用され重要視されました。 下の写真は江戸時代港として栄えた福良港があった浜と河口に秋山港が有った川筋に福良本陣跡の碑です。 

7月03日 (水曜日)
先月六月には、湖に面した月形地区と県道6号線三森峠の玄関口、梅花藻咲く中野地区を紹介しましたが、今回は江戸の昔より会津五街道の一つ、白河街道の宿場として栄えた「三代」(みよ)をご案内します。  天正18年(1590)8月9日、豊臣秀吉は天下統一の仕上げの為に、白河街道を通って会津に入ります。 その当時、葦名氏を奥州統一を狙っていた米沢の伊達政宗が破り、会津は伊達の支配下に入りましたが、時の権力者豊臣秀吉の命令で、僅か一年余りで会津の地を去ります。 但し白河街道の改良を命じられたのが、勢至堂峠から黒森峠に抜けるこの道でした。  秀吉は三代の本陣には入らず、難を避けるために筋向いの民家に泊まったと言われています。  本陣も備えた本格的な宿場町が形成され、会津藩・越後新発田藩・村上藩の参勤交代にも使われた宿場です。 亨和2年(1802)には鶴ヶ城に向かう
伊能忠敬も、此処に宿を取ったと言われています。 大変な賑わいを見せた三代宿は、安政4年(1857)の大火で、約80数戸有った家々が30軒余り焼失し、その際両側に一間ずつ退いて道を広げ、現在も二車線の道路と歩道が設置出来る幅となりました。 然し現在の集落には全く面影は無く、屋号を書いた立て札が家々の門口に立てられている姿を見るだけとなりました。  街並みに昔をしのぶ物はありませんが、会津表街道の往来を一里塚に見る事が出来ます。 江戸幕府にとって日本海と結ぶ佐渡路会津通りで重要な脇街道でした。  幕府の一里塚設置の命により、会津藩は寛文7年(1667)に一里塚を設け、松並木を植える等して街道の整備を図りました。  湖南を通るルートは現在の国道294号とほぼ重なり、黒森峠・勢至堂峠・山王坂等の難所はトンネルに変わり、赤津・福良・三代の宿場独特のカギ型の街路もいずれバイパスにその役目を譲り終えるかも知れません。  三代の一里塚は若松の城下町から数えて7番目の塚です。 三百余年の生き証人でもあります。 場所は湖南小中学校の前に有ります。

最初の写真は7月3日撮影の梅花藻です。 広報「こおりやま」7月号の表紙の裏面に中野の梅花藻が紹介されています。

7月01日 (月曜日)
観光の分野では・・・無いのですが、前々から気になっていた「ロックシェッド」。道路や鉄道を落石
から守る工法で、国道49号から県道9号に入ると、必ず通る場所です。 2002年猪苗代湖南線五万堂道路整備工事として建設されました。  五万堂山(792m)は湖に面した斜面は大変きつく、「ロックシェッド」が出来る前は、落石と同様、道路まで波しぶきがかかり、特に風の強い日は危険を感じる道路
だった様です。 マンションを出て猪苗代町に買い物に出掛ける時は、必ず通過する所ですが、此処を境にお天気が良く変わります。 こちら湖南が晴れていても通過すると、風がとても強く小雨が降っていると云うことや、その逆も良く有る所です。 通過している時、此処の景色がとても気になっていて、何度か一段高くなった歩道を歩いた事があります。  また時々、大きなカメラを抱えた方が中で写真を撮っているのを見かけていました。  特に夕日の時間帯が多く見られました。  私も夕方に行きたかったのですが・・・。  29日午後2時前に、マンション側からほんの少し歩道を歩き写真を撮って来ました。  如何でしょうか?。  見慣れた場所かも知れませんが、湖の違った顔を見る事が出来た様な気がしませんか! (御免なさい。自己満足です) 

6月21日 (金曜日)
郡山市中心部から車で此処マンションに来られる方は、国道49号線中山峠を越える方と、県道6号線
三森峠を越えて来る方の、二通り有るかと思いますが、どちらの峠道も江戸時代から利用されていましたが、中山峠付近の道路の改良が先に進み、三森峠は裏街道となってしまいました。
1962年に三森隧道が開通しましたが、つづら折れが続き現在旧道となり、通行止めで隧道は埋められています。 30年後、三森バイパスの改良工事が進み三森トンネル、2004年に多田野トンネルが開通しましたが、それでも道幅が狭く対向車とのスムーズなすれ違いが困難で、特に冬期間の通行に支障を期していましたが、三森Ⅰ工区が2021年(令和3)11月に完成し、行き来が楽になり此方の峠を利用する人も
増え、近年雪も少なくなり此処湖南から郡山中心部に通勤する人も増えた様です。
この中野地区は三森峠の麓に有り、隣の三代と共に湖南の追分に位置する重要な場所です。
但しマンションを訪れる方々の殆どが、峠を抜けた後中野集落に入る事無く、岩上山の麓をぬけ、舘に出て県道9号線に入るコースを通り、マンションに到着されるのではないでしょうか?
少し遠回りかと思いますが、昨日の「梅花藻」や中地大仏周辺の自然木を訪れて見て下さい。
大仏殿を囲む様に、湖南800年の歴史を見て来た「大仏のケヤキ」や樹齢500年の「大ケヤキ」と会津藩
が植えた樹齢400年の「大エノキ」は見事です。  中地大仏殿には木車に乗った東北最大の坐像寄木作りの阿弥陀如来が安置されています。(県重要文化財)  カギが掛かっていますが、扉の横に案内板が
有り連絡すると開けて貰う事も出来ます。  小人数は無料です。
此の敷地の横に2005年(平成17)に、131年の歴史に幕を下ろした中野小学校校舎が有ります。
歴史の流れを目で感じる事が出来る場所です。
下の写真は中地大仏殿と大仏のケヤキに、廃校となった中野小学校の記念碑です。
「梅花藻」から数分の県道6号線沿いに有ります。

6月20日 (木曜日)
6月中旬ごろから咲き始め、9月末ごろまで見られる、私の大好きな花「梅花藻」(ばいかも)の咲き
具合を確認に、中野集落の中心を流れている清水川に行って来ました。
清流「清水川」に、この辺りでは金魚草の名で親しまれている、可愛らしい白い花が咲き出しました。
水温の低い清流で育つ水草で、キンポウゲ科の多年生草木植物です。
水中で梅に似た直径2㎝程の花を咲かせます。  湧水が流れ水温が年間を通して14度前後を常に保つ
水の中に育ち、長さは50㎝程も有ります。  この「梅花藻」を観光の目玉にしている街が有り、有名な
所に富士山のお膝元、三島市柿田川や米原市醒井地蔵川等が特に知られています。
花言葉「幸福になります」。  家庭で育てる事の出来ない花です。  一度是非見に来て下さい。
場所はマンションを左折、最初の信号舟津を左に曲がり、2個目の信号T字路県道6号線も左折して、
右手の蕎麦MARU壱を過ぎ、直ぐに安佐野の標識を右に曲がった所です。 2~3台駐車スペース有り。
写真2枚は水中に咲く「梅花藻」。 もう一枚は中野からの帰り道、舘集落の外れに咲いていた秋桜。



6月17日 (月曜日)
県道9号線を走り館を過ぎると舟津に入ります。  月形地区最後の集落です。  県道と別れ信号を
直進し舟津川を渡ると道幅が狭くなり、進むと太田屋食堂が出て来ます。その先に現在の湖南港が有
ります。  その昔、江戸のころから栄えていた港は、舟津川河口にあり会津藩の支配下で、大変
栄えていましたが、二本松藩領に変わってからは、荷は少なくなり衰えてしまいました。
舟津川を渡った所の「日本一」と言う住所は、二本松藩主がこの地を訪れた際、此処のお米を食べ
これ程うまいお米は無いと、名付けたとされています。
隣会津藩との舟荷のいさかいが絶えず、二本松藩は此処に代官所を設置して役人を置きました。
その跡地は先程の信号を直進して、直ぐ右手に石碑が建っています。
現在、湖南港は県の港ではありますが、観光港としての役目は既に終え、賑わいを見せていた昭和
から平成に入り、プレジャーボート用の浮桟橋となり、大きな観光船が入る事はもう無いとの事。
寂しいですが景色は最高ですので、一度訪ねて見て下さい!
下の写真は、現在の湖南港と、港から見た磐梯山。 江戸時代に港が置かれた舟津川河口です。

上段の写真は17日夕暮れ時、対岸にそれまで姿を見せなかった飯豊山が見えて来た時のものです。

6月10日 (月曜日)
観光の分野に入るかちょっと疑問・・・ですが、下の写真の場所をご存知でしょうか?
マンションを左折して数分で出て来る「取水塔」です。  郡山中心部の人達にはとても大切な場所。
猪苗代湖の水が、ここ浜路の写真に有るこの塔から取水され、逢瀬町の堀口浄水場へ送られています。
1979年(S54年)に水道専用のトンネルが完成し、市の東部地域を除く、ほぼ全給水区域へ供給され
ています。  その最初の場所です。  取水塔には、この付近オランダ釣り禁止のボードが目に入り
ますが、餌を撒いて数個のカラ針を使って釣りをする事を指している様です。
水質汚染の原因と考えられ禁止となっています。  水道専用トンネルを使い、取水された水が私達
の目に触れる事無く、運ばれています。  水は命に関わる物ですから、当然のことですね!
何気に通過している所ですが、気に留めて下さい。  とても大切な場所です!

6月06日 (木曜日)

★ 湖南町の紹介
戦国時代頃から白河街道が通り、赤津・福良・三代には宿場町が置かれて栄え、街道で結ばれた会津
との繋がりが深かったが、郡山市内への交通が良くなった1962年(昭和37年)三森隧道が開通したのが
大きい!  1955年(昭和30年)3月、中野村・三代村・月形村・福良村・赤津村の五つが合併し
安積郡湖南村となり、1965年(昭和40年)5月、安積郡全町村が郡山市に合併となった。
ここマンションのある浜路は、月形村の一部で現在この名前が、横沢にある郵便局に残っています。
月形とは猪苗代湖東岸に沿う三日月形の平野を指しています。
★ 散策して見ませんか?
白河街道から外れた月形村浜路は、中通りから会津に抜ける東堺の「御霊櫃峠」(ごれいびつとうげ)の
旅籠として栄え、浜から湖上通運で会津へ、人と物資が運ばれた場所です。
今回は、その当時の面影を残す自然木を紹介します。
1)浜路の「エゾエノキ」
  市の天然記念物で、樹齢400年以上を超えるものや、欅も含めた群落を見る事が出来ます。
  エゾエノキの仲間では日本一の巨樹とも言われています。
2)横沢来福時の「大杉」
  集落奥山の麓の来福時馬頭観音堂境内にあり、樹齢300年を超える大杉で、当初は夫婦杉として
  植えられましたが、大正時代の台風で一本折れた様です。
  近くには大きなイチョウが数本あり、秋の色づきは見事です。
3)五輪塚の「大杉」
  舘集落の入口から左に曲がり、岩上山の麓を抜け、県道6号線に向かう途中にあり、右手には
  農神を祀る御札神社(おふだじんじゃ)があります。
  やや細長い土盛りがあり、横沢領主伊東川内守のお墓と伝えられる小さな五輪塔置かれ、そばに
  「大杉」があり、五輪塔と同時期に植えられたとされていますが、樹齢などは不明です。
  ウラスギの仲間で最頂部までしっかり葉を繁らせています。
4) 舘の「大マユミ」
  更に進むと、左手に弓の木の仲間で樹齢300年以上と見られるマユミの大木があります。
  この地には、江戸末期天保4年1833年に会津藩の出番所が置かれ、その出番所の標木として
  植えられ、県内でも稀に見るマユミの大木です。
ここまで、時代を生き抜いた大木を紹介してきましたが、月形地区の各集落には、五穀豊穣を祈願
する神社など数多くあり、それらをゆっくり訪ねてみてはいかがでしょうか。
特に10月に行われる、横沢の「麓山まつり」(はやままつり)は麓山784mの祖霊を迎え続けて、
一千年余り続く奇祭です。  コロナが落ち着いた昨年行われました。
祭りが近づく9月ごろに、ご案内したいと思っています。  

下の写真は上段左が浜路の「エゾエノキ」、右が横沢の「大杉」と下段左が舘五輪塚の「大杉」、
右が舘の「大マユミ」です。

ショッピング

ショッピング・・・?。  「お使いに行って来て」と云う言葉が似合う場所です。
皆さんは郡山中心部や、隣町猪苗代の大きなお店はご存知かと思い、ここ湖南町の個人商店を、紹介
します。  初めに湖に沿った浜路から舟津までの、月形地区に有るお店です。
マンション前の、県道9号線を左に曲がり進みます。  浜路・横沢・舘の集落を抜け、始めての信号が
舟津です。  左に曲がると中野方面ですが、直進すると左手に「滝田商店」隣に「太田屋菓子店」が
あります。  「滝田商店」は、お酒から肉・魚・果物・アイスに日用品と、色々な物が揃っている昔ながらのお店です。  隣の「太田屋菓子店」は、特にいろんな味のどら焼きが楽しめる、和菓子手作りの
お店です。  地元の人を始め市内からも峠を越えて買いに来る人も多い様です。 他にも日用品も扱って
います。  一度、和菓子を求めて立ち寄っては如何ですか。
買い物の後は、舟津川を渡り、日本一の看板に何が?日本一と疑問を持ちながら、巾の狭くなった道路
を進むと、右に市営無料駐車場を過ぎ、左に県営無料駐車場が出て来ます。
(因みに、日本一は此処の地名で、何故付いたのかは、洞泉寺の境内に説明文があります。)
その先に、食事処「太田屋食堂」があります。  濃紺の暖簾、名物の「赤はら天ぷら」の看板が目に
入ります。  名物「赤はら」はハヤの事で、猪苗代湖で獲れる川魚「ハヤ」は産卵期にお腹が赤くなる
ことから赤はらと、地元では呼んでいます。  からっと揚がってとても美味しいです。
お土産に持ち帰りも出来ます。  一度、地元の名物を食べて見て下さい。
月形地区には、食事の出来るお店はとても少なく、もう一軒、舟津の信号を湖方面、右に曲がった所に
「うどん」「ソフトクリーム」の旗が並んだ小さなお店「小町」があります。  店内は狭いのですが、
手作り湖南名物「かりんとう」や紫蘇巻き等と、地元の野菜が安い値段で売られています。
順番が最後になってしまいましたが、マンションから一番近い所、湖岸道路に入って僅かな所に
「小さなパン屋さんコムギ」店があります。  小麦や酵母にこだわったお店です。
ホームページも有りますので、詳しい事はそちらをご覧下さい。  「小さなパン屋さんKomugi」
以上、月形地区の買い物と食事処を紹介しました。
写真は、左「滝田商店」「太田屋菓子店」、中央「太田屋食堂」、右「小さなパン屋さんコムギ」です